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『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』に見る多メディア化時代のトランス・メディア・ストーリーテリング
作品全体から感じられたのは、J・J・エイブラムスや制作陣からの『スター・ウォーズ』シリーズを忠実に守ろうという強烈な意思だ。
まず、物語の構造が旧3部作ならびにプリコール3部作の各一話目に似せて作られている。また旧作の登場人物を含めたキャラクター構築においても『帝国の逆襲』ならびに『ジェダイの帰還』に参加した脚本家、ローレンス・カスダンとJ・J・エイブラムスが共同で脚本づくりをおこなうなど万全を期しただけに当時の雰囲気を崩すことなく30年が経過したというイメージを伝えることが出来た。
さらに、劇中で描かれた数々の世界観を作り出すうえでは『新たなる希望』、『帝国の逆襲』ならびに『ジェダイの帰還』にコンセプトアーティストとして参加したラルフ・マクォーリーが描いた膨大な資料を参考にしつつ、作り上げたのだという。その結果、前作の大戦によって残された傷痕の描写以外、全ての場景は新しいスタッフによる「オリジナル」でありながら、敵方のファースト・オーダー、味方側のレジスタンス、そして登場するすべての惑星、そのどれをとっても『ジェダイの帰還』以降の世界として、しっくりはまるように作り上げられていた。
物語、世界観、どれをとっても『スター・ウォーズ』なのにもかかわらず、終始感じた「違和感」
にもかかわらず筆者は、全編を通して不思議な「違和感」を感じた。劇中に描かれるそれぞれの要素から、登場人物の演技などひとつひとつをとっても、これらはどう考えても『スター・ウォーズ』なのだが、「なんとなく」これまでの『スター・ウォーズ』と違うと感じてしまう自身がいたのだ。しばらく考えて、はたと気づいたのは作品の「語り」の違いだ。
ジョージ・ルーカスが監督、または、エグゼクティブ・プロデューサーとして「監修」していたときと、そうでない今回ととでは、物語の「描き方」が違うということだ。
まず作品全体の「ペース」。従来の作品では、本筋や登場人物の行動原理を示すうえでその外延からかなり時間をかけて話が展開されていた。シーンの転換についても、若干時間がかかるワイプがしつように使われ(黒沢作品のオマージュとする研究者もいるが)、細かくカット割りするシーンはいくつかの戦闘シーン以外は少ない。また登場人物についても『帝国の逆襲』を除きコミック・リリーフ担当と本筋担当が明確に区分けされ、コミック・リリーフは本筋とは別に描かれるなどしていた。さらに戦闘シーンひとつをとっても、戦闘に入るまでのプロセス、戦闘状況、敵方の奇天烈な武器の作用(『シスの復讐』の冒頭シーンにおけるバズ=ドロイド)など、克明に描かれていた。だが今回は、惑星ジャクーからクライマックスの戦い、そしてラストシーンなど、コミック・リリーフの瞬間も含むすべての時間が何らかの形で本筋を「駆動」させるために描かれていた。
その分「世話しなさ」を感じた人もいるかもしれない。むろん、それが悪いと言っているわけではない。事実、昨今のアクション映画はたいていこのような「ペース」で描かれており、最近の人たちにとっては、旧6作の「ペース」のほうがとろいと感じてしまうことだろう。ただ、本作ににおいて従来より速い物語進行が重要なのは、本作が旧作からの登場人物の30年間にわたる時間的継続性を示しつつ、新たな登場人物も敵、味方双方じっくりと魅せなければならない作品であったということだ。これは観客が納得する程度のノスタルジーを感じさせつつ、新たに登場したキャラクターにも感情移入させなければならないことを意味する。従って劇中で交差する登場人物の関係性は『帝国の逆襲』並みか、それ以上に複雑になっている。従って、語りの「ペース」を旧作並にする時間などはそもそもなかったのだ。(ちなみに『帝国の逆襲』は人間関係の成長が最重視されていたため全体的な戦局の物語展開は、「秘密基地を察知された反乱軍が帝国軍から逃げる」程度にとどまっている。)
言葉ではなく行動で「見せる」ストーリー
もう一つは行動動機をいかに「描くか」。ジョージ・ルーカス時代、とりわけプリコール3部作のときは、行動動機やそれぞれのキャラクターの存在意義を登場人物に「語らせる」手法が比較的採用された。アナキンが持つジェダイ騎士としての素養についてはクワイ・ガン=ジンが雄弁にしゃべり、アナキンのパドメに対する愛情や愛する人を失うことへの恐怖、そしてジェダイへの疑惑は、すべてセリフとして表現された。だが、本作については、劇中でおこるキャラクターの「フォースの覚醒」や行動動機、並びに互いに対する愛憎といった感情表現もセリフではなくその行動で表現される。この感情表現の繊細な示し方は、悪役にも及ぶ。結果的に本作は「悪へも感情移入出来る物語づくり」が出来ている。これまでの作品においては、アナキンのダークサイドへの堕落も含め「圧倒的な野望や恐怖に屈する」という状況が先だってしまい観客にとって理解は出来ても「自分にあり得るのでは」といった感情移入をすることは難しかった。だが、今回は観客でも理解しやすい「身近に起き得る葛藤」が巨大な悪へと走る端緒として「描かれている」ために、敵方にも同情する余地が生まれているのだ。これは『スター・ウォーズ』シリーズから受ける初めてのタイプの情動体験とも言える。
総じて、J・J・エイブラムスは、映像メディアとしての物語の「描き方」に忠実だったと言えるだろう。その代わり、前述のとおり、物語を駆動させることに注意を払いすぎたがために、物語環境をジョージ・ルーカス並に示すだけの「遊びのシーン」はほぼ完全に排除された。これが筆者が感じた違和感につながったのだろう。だがこの違和感が総体的に映画体験を損なわすまでには至っていない。それだけ本作におけるキャラクター構築と物語展開は重要だったのだ。
役づくりがゆるく、散漫に見える部分が存在する理由
もっとも、今回登場するキャラクターの全てが丁寧に描かれているわけではない。この点を本作に対する不満として上げているひともいた。だが、J・J・エイブラムスの過去作品を見ても明らかだが、エイブラムスがこのようなミスをあからさまにすることはまず考えられない。従ってこれは、意図的であると考えたほうがいい。それは、今の時代は一つのコンテンツを複数メディアで享受するのが当たり前の時代となっているからだ。実際、本誌の読者の場合、本作を劇場で見る前に、『スター・ウォーズ:バトルフロント』のDLC『バトルオブジャクー(ジャクーの戦い)』をプレイしてから見ている人も多いのではないだろうか?
つまり、本作で描き切れなかった登場人物については、別メディアで楽しめる機会が与えられるのでは、ということだ。一つのコンテンツに対しそれぞれのメディアの特性にあわせ、それにふさわしい物語をメディアの垣根を越えてデザインすることを欧米ではトランスメディア・ストーリーテリングと言うが、ビジネス的に考えてもこれからの3部作をより深く理解させるという意味でも今回示されなかったキャラクターの人物像や行動動機が別メディアで描かれるのは十分理にかなっている。
ディズニーは、旧3部作ならびにプリコール3部作が映画制作における新技術導入の先鋭となったように、新3部作を多メディアによるストーリーテリングの先鋭にしようとしているのだ。これを「野心に満ちた試み」と言ってしまえばそれまでだが、筆者はここから生まれる物語体験の新たなる進化に期待したい。
ご存知でした?この映画を監督の意図した真の形でで観るは大阪エキスポシティの4Kx2 IMAXでしか観れないという事実...
そして東京では成田にある2Kx2 IMAXが日本で2番目にいいということを...
そんなわけで2015年の年の瀬に友人と2時間弱かけて行ってきた。いや成田本当に遠い...
映画館では、プレミアムシートとIMAXどちらもダブル童貞だったためさすがの快適さと映像の迫力に圧倒されっぱなし。
肝心の映画も、もちろん期待通りかなり良かった。
突っ込みたくなるような設定もあったし「ライトセーバーもっと出して-」とかケチをつけようと思えばつけられるわけで、細かいこと気にせず観ればやっぱりちゃんとスターウォーズ。
上映後の友人と私の感想は、「あーとりあえずBB8可愛いな、グッズ欲しいな」とこれにつきる。
本当はもっとあるがもう自分の目で確かめていただきたい。
上映の際は、ホットドッグ、ポップコーンとビールをお忘れ無きよう!