南海(現ソフトバンク)、ヤクルト、楽天などで監督を務めた日本プロ野球界きっての名将・野村克也。 野村の采配の一つに、伸び悩む選手を適材適所に起用し、成長または復活させるというものがあります。 その采配は、「野村再生工場」と呼ばれました。 今回は、野村再生工場で復活を遂げた選手たちをご紹介します。
野村再生工場とは
野村克也が監督時代に行っていた采配の一つ。
伸び悩んでいる選手、他球団をクビになった選手、トレードで移籍してきた選手がその対象になります。
野村は、「固定観念は悪」という考えの下、これまでの起用法にとらわれず、その選手の特長を生かした起用法を確立させました。
野手だと、守備位置をコンバートしたり、バッティングのスタイルを変えるなど。投手だと、起用法を変えたり、新球種を習得させて投球の幅を広げるなど。
こうして活躍していった選手は数多くいます。
野村再生工場で復活した選手
野村再生工場で復活した選手はたくさんいます。以下、紹介していきますね。
江夏豊
阪神時代にシーズン最多奪三振記録を樹立するなどエースとして活躍していましたが、野村との出会いで野球人生が大きく変わりました。
江夏はトレードで、野村が監督を務める南海ホークス(現ソフトバンクホークス)へ移籍します。
しかし、移籍1年目に血行障害や心臓疾患を患い、先発として長いイニングを投げるのが困難になります。
そこで野村は江夏にリリーフ転向を打診します。
当時のプロ野球は先発完投が当たり前で、リリーフの重要性は決して高くはありませんでした。
そのため初めはリリーフ転向を拒否していましたが、「野球界に革命を起こすんだ」という野村の言葉が決め手となり江夏はリリーフに転向します。
江夏は、南海、広島でリリーフエースとして活躍し、見事復活を遂げました。
山崎武司
中日在籍時の1996年に松井秀喜を抑えて本塁打王を獲得した強打者。
2000年代以降成績が下降し、2005年誕生した楽天の創設メンバーとして入団。
この時すでに30代後半でした。
翌2006年から楽天の監督に就任した野村から、「相手の配球を読んで打て」とアドバイスされます。
これまで何も考えずに来た球を打っていたという山崎のバッティングスタイルは大きく変わり、2007年に43本塁打108打点で本塁打王と打点王の2冠に輝きました。
以降、持ち前のパワーに読みが加わった山崎のバッティングが輝きを増し、野村監督在任中は主に4番打者としてチームを引っ張りました。
小早川毅彦
広島カープで4番を務めた経験がある強打者。
広島を戦力外となり、野村率いるヤクルトに入団。
1997年の開幕戦となる巨人戦にスタメンで出場。
巨人は、1994年から96年にかけて開幕戦3年連続完封勝利を挙げていたエース斎藤雅樹が出場。
小早川は広島時代、斎藤を得意としていました。
そのデータを基に起用した野村。
小早川起用は大正解でした。
斎藤から3打席連続本塁打を放つ活躍で、開幕戦を制します。
その勢いのままこの年のリーグ優勝、日本一を成し遂げました。
飯田哲也
1990年代ヤクルト黄金期を支えた外野手。
元々は捕手として入団します。
当時新人で後の正捕手となる古田敦也に引けを取らない強肩を誇りました。
しかし、飯田は足も速く学生時代に外野手をしていた経験があるとして、野村は飯田を捕手としてでなく外野手として起用します。
この起用がうまくハマり、飯田は外野手として頭角を現していきました。
「固定観念は悪」という野村の考えが、飯田の新たな才能を見出したのでしょう。
高津臣吾
1990年代~2000年代前半にかけてヤクルトの守護神として活躍した名投手。
入団直後、野村から、「お前のストレートはプロでは通用しない」と酷評された後、「西武の潮崎のシンカーを盗め」と言われ、高津は当時西武ライオンズの中継ぎエースだった潮崎哲也の決め球・シンカーを習得します。
習得した110キロほどのシンカーを武器にヤクルトの抑えとして長らく活躍しました。
辻発彦
西武ライオンズ在籍時は森祇晶監督の下、正二塁手として1980年代の黄金期を支えました。
歴代最多8度のゴールデングラブ賞に輝いた名二塁手でもありました。
1990年代以降になると成績が下降し、95年オフに西武を戦力外になります。
複数の球団からオファーがありましたが、尊敬する野村の下で野球を勉強したいという思いでヤクルトへ入団。
移籍初年度の96年には100試合以上に出場し打率3割を超える好成績を収め復活を遂げました。
現在は、古巣である西武ライオンズの監督を務めています。
藤本敦士
俊足巧打の内野手として阪神タイガースで長らく活躍しました。
2000年の社会人野球日本選手権を野村が視察した際に藤本が、当時ドラフト注目候補だった岡本真也から3安打を放ちました。
そのバッティングを見た野村が獲得を熱望し、その年のドラフト7位で阪神へ入団しました。
内野ならどこでも守れ、俊足で小技のできる選手として、野村阪神では主に下位打線で起用されました。
遠山奨志
高校時代は屈指の剛腕として名を馳せ、1986年に鳴り物入りで阪神に入団しましたが、プロ入り後は伸び悩んでいました。
1990年オフにロッテへトレードされ外野手に転向しますが失敗。
97年にロッテを戦力外になります。
98年に古巣阪神の入団テストを受けて投手として合格します。
翌99年から阪神の監督に就任した野村の下でピッチングフォームをサイドスローに変更し、新球種としてシュートボールを習得します。
そして、主に左打者へのワンポイントリリーフという地位を確立。
阪神の貴重な左リリーフとして活躍しました。
当時巨人の4番だった松井秀喜は遠山を苦手としていて、「松井キラー遠山」と呼ばれていました。
金森栄治
1992年オフに阪神タイガースを戦力外になります。
突出した成績を残したわけではありませんが、野村が獲得を熱望し、ヤクルトに入団しました。
野村が目を付けたのは、金森のこれまでの通算成績ではなく、人間性などの数字には表れない部分でした。
練習に対する姿勢やベンチでのムードメイクなどは若手の見本である、として野村は金森を高く評価していました。
主に代打として起用され3割を超える高打率をマークしていました。
練習姿勢やベンチでの振る舞いを見た若手は、金森を真似するようになり、いい効果をもたらしました。
吉井理人
ヤクルト投手陣を支えた先発の柱。
1995年に近鉄からトレードで入団。
同年初めて規定投球回に達し10勝を挙げ2桁勝利をマークし優勝に貢献します。
その後、96年に10勝、97年に13勝を挙げ3年連続2桁勝利を記録しました。
小倉恒
2005年に楽天初年度に入団しますが、成績が振るわず1年で戦力外通告となります。
しかし、12球団合同トライアウトで次期楽天監督の野村の目に留まり、異例の再契約入団を果たします。
創設2年目で戦力も十分に揃っていない中で、小倉は大車輪の活躍をします。
登板数も前年の15試合から大きく飛躍し58試合に。
中継ぎながら6勝を挙げました。
また、守護神・福盛和男が不振に陥った際には、抑えを務め4セーブを挙げました。
小倉は、楽天創生期の器用な中継ぎとして活躍しました。
小山伸一郎
2005年の楽天初年度に入団します。
前年まで在籍した中日では150キロを超す速球を生かせずにいました。
しかし、06年に楽天の監督に就任した野村の指導の下、投球フォームを変え、課題だった精神面の弱さを克服します。
07年には怪我で戦列を離れた福盛和男に代わって抑えを務めプロ初セーブを皮切りに16セーブを挙げました。
その後は楽天の中継ぎ陣を支える存在として、09年の2位、13年の初優勝日本一に貢献しました。
参考元
- ・参照リンク:NPB.jp 日本野球機構
- ・日本プロ野球歴代全選手写真名鑑―1936ー2014 (B・B MOOK 1144)ムック
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