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出典:amazon

2016/11/18
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ロングランを続けるミュージカル『コーラス・ライン』映画版の魅力とは?

ミュージカルとして「キャッツ」や「オペラ座の怪人」同様、絶大な人気を誇る「コーラス・ライン」。 その映画版が1985年に、今は亡きリチャード・アッテンボロー監督により制作された。オーディションで選考するのは、主役のダンサーの前で踊る、いわば「その他大勢」。 観客が目にも止めないだろう配役をめぐって、夢を追うダンサーたちが熾烈な競争を繰り広げる。

目次

原作となった舞台劇は?

この映画の原作となった舞台劇は1975年。原作者はマイケル・ベネット、音楽はマービン・ハムリッシュ。原題 "A Chorus Line"。

そもそものきっかけは、あの有名な「ウォーターゲート事件」であるという。その公聴会を見て「汚れた英雄より、正直な脇役を」という思いが沸き上がり、その思いがこの作品の下地となった。

そしてその構想が始まると、実際のダンサーに取材して各人各様の主人公たちの原形となった。

実際に彼らの声をテープに収め、何度も聞きながら作品を固めていった。そして、作品の設定の一部は実話であるという。それが物語に生々しさのある現実味と説得力ある効果を生み出している。

「コーラス・ライン」とは、稽古の時に舞台上に引かれる線のことで、その他大勢のダンサーたちはそこからはみ出て主役より目立ってはいけない。

それでもその位置の選抜に際し、オーディションを行う演出家のザックは、ダンサーに踊りを求めるだけでなく「君たちのことが知りたい」と申し出て、それぞれが踊りの道に足を踏み入れることになったきっかけやその思い入れを語らせる。

舞台はヒットし、その後もロングランを続け、当時の記録を更新する。
日本においても何度も公演されている、ミュージカルのスタンダードである。

映画版を監督したリチャード・アッテンボローとは?

このアメリカ歌劇の映画版を監督したリチャード・アッテンボロー(1923-2014)は、イングランド出身のイギリス人である。風貌は、どこか宮崎駿監督にも似ている。

ロンドンの王立演劇学校出身で、元俳優だ。俳優業を引退後は、監督業に転向し、1982年に監督した「ガンジー」でアカデミー監督賞を受賞している。

この映画を撮影した時には、すでに60歳を過ぎていた。プロデューサーがアッテンボロー監督に演出の要請をした時には、多くの人々に驚きをもたらしたが、懐疑的な声も少なくなかった。アカデミー賞受賞作の「ガンジー」とは、あまりにも違う題材だったからだ。

本人も実は南アフリカを題材にした次回作の準備中だったという。つまり、プロデューサーが白羽の矢を立てなかったら、この作品を監督することはなかったのだ。

映画版の配役は?

映画版では、オーディションを仕切るザック役のマイケル・ダグラス以外はみな、ほぼ無名と言っていい俳優陣である。

そして元々ザック役はあのジョン・トラボルタに決まっていたという。その出演がなくなった時、大スター不在のキャスティングで唯一名が売れているダグラスは、本人の強い希望でギャラやクレジットで特別扱いをしない条件で出演を承諾したという。

ザック以外のキャストは、ザックの元恋人キャシーをアリソン・リード、整形美人のパルをオードリー・ランダース、年増ダンサーをビッキー・フレデリック、夢見る少女をパム・クリンガー、プエルトリコ人で差別を受けるダイアナをヤミール・ボージェス、美人若妻のクリスティンをニコール・フォッシーが演じている。

この他に、合わせて18人の主役たちがキャスティングされているが、そのいずれもが30年後の現在、他の映画では名前を見ないような無名の存在のままである。

つまり、映画は大ヒットしたがそれをきっかけに大ブレイクする俳優はこの映画から出なかったのだ。

「この映画でのみまばゆい光を放った」と言う点で、現実世界とも奇妙にシンクロしている。

映画とミュージカルではどこが一番違う?

これは名のある劇なので、ストーリーは皆知っている。と言うか、展開が明快なので話すまでのこともないだろう。

ダンサーを目指す人たちが、それぞれの背景や思いを胸にオーディションに参加する。長くつらい試練を経た後、ある人は合格し、ある人は失意の中会場を去る。言ってしまえば、それだけの内容なのである。

すべてのストーリーは、オーディションのその一日だけの間に繰り広げられる。その内容には舞台劇も映画も大した差はない。

しかしそれは、映画公開当時の話。30年の時を経ると、映画版と舞台版では全く違った話になってしまうのだ。

時の流れに対する解釈:映画と舞台はここが違う

映画版であっても回想シーンなどは使わず、ほとんどの場面が舞台の上である。

それでもカメラは、時々外景を映している。そこに映るのは、30年前のマンハッタン。つまり映画版では、今から見て30年前の話になってしまうのだ。

「お伽噺だから時は永遠に止まったまま」、などと言う絵空事を持ち出せば、たかがコーラス・ダンサーに人生をかける彼らの現実に、説得力が全くなくなってしまう。

反対に、舞台の上に限定される劇場版では、そこだけが永遠に現在である。何年ロングランを続けようとも、キャスティングを変えてもそれは変わらない。演じる舞台の上では、「コーラス・ダンサー」は30年前の話ではなく現代の話である。

舞台に応募したダンサーたちは合格してもしなくても、明日はすぐそこに続いている。不合格で落ち込んだとしても、またすぐにでも、どこかのオーディションに元気に出かけることができるのである。

映画版も公開当時はそれと同じだった。しかし、今となっては昔となる外景を映したことで、映画版は明らかに時の流れがあると言う運命を背負ってしまったのだ。アッテンボロー監督が当時それを意図して映画を作ったかどうかは別として。

それぞれのダンサーは今どうしてる? 厳しい現実を経て物語はさらに輝く

厳しいオーディションの過程を経たあとの最終選考の発表。それぞれのダンサーたちが、自らの青春の一日に身を投じた結果の明と暗。

舞台のようにこの結末がまだ明日に続いているならば、その時点でのこの差は大きい。合格した人たちは次のステージに行けるが、不合格だった人たちはまた一からやり直さなければならない。

しかしこれが30年前の話だとしたら、どうだろう? オーディションに合格してコーラス・ラインに立てた人たちも含め、スターへの階段を上った人は果たして一人でもいるのだろうか?

それに対する答えは、もちろん映画の中にはない。しかし、おそらくは全員が「ノー」なのだ。コーラス・ダンサーやバックダンサーを経て抜擢されてスターになる確率など、今日彼らが受けたダンスオーディションに受かるよりも、さらに低い。

そしてこの物語は、そうした夢物語にも等しいシンデレラストーリーを基調としていない。

おそらくこの試験で最終選考に残った17人は、合格者であろうが不合格者であろうが、そのほとんどが「元ダンサー」の肩書の元に、ある人は平凡な主婦やOLになったり、よくても下町のダンス教室で雇われの講師をしているとか、その程度に違いないのである。

結局彼らの努力は無駄、人生の寄り道をしただけなのだろうか?

30年を過ぎた今もこの映画が素晴らしい光芒を放っているのは、彼女たちが成功したかどうかなど関係なく、「かつて輝いていたステージ」を描き出した点にある。

そう、誰もが知りえる存在にならなくても、有名な舞台の上で踊らなくても、たとえ歴史に名を残さなくても、彼ら彼女らには人知れず輝いている瞬間があった、ということ、そこに感動するのである。

それを象徴するのがラストのシーン。そのシーンにこそ、アッテンボロー監督のメッセージが凝縮されている。そこから先は、ぜひ自分の目で見ていただきたい。

参考元

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