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出典:amazon

2019/04/09
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「ぼくのおじさん」に見る、懐かしい昭和の香り。

原作は、芥川賞作家の北杜夫。1970年代に発売された児童小説である。それを題材として制作された2016年の映画。この作品の主人公の「おじさん」のモデルは北杜夫自身だという。主演は松田龍平(おじさん)。他に大西利空(子役)、真木よう子(マドンナ)。

だらしのないおじさんが主人公。冴えないが面白い人間像が魅力。

一般に、学校の図書館にはマジメな本が並ぶ。
特に、視野を広げるために海外の本を読むことが奨励される。

たとえば、様々な昆虫を観察・記録した「ファーブル昆虫記」や、粋でスタイリッシュな主人公が活躍する推理・冒険小説「シャーロック・ホームズの冒険」のような本は、いつの時代も子供たちに人気である。

こうした学校推薦図書の多くには、礼節や品格を備えた模範的な大人像が描かれる。

ところが、そうした理想の大人像とは180度違う人物像が主役となっている学校推薦図書も存在する。

それが、ここに紹介する「ぼくのおじさん」である。
この主人公はシャーロック・ホームズのような颯爽とした西洋人ではなく、だらしのない日本人のオヤジだ。

このおじさん、週に一日しか働かず兄夫婦の家に居候しているくせに、態度がでかく子供の教育見本にもならないという、まさにダメ人間の典型。
それなのにやたら口ばかりが達者で「自分は哲学者だ」と公言してはばからない。

事実、大学では客員教授をしていて哲学を教えているので、学歴は低くないし、頭も悪くない。
ところが実生活では、スポーツをやらせれば運動音痴、金や地位や名声とも無縁。
おまけにハンサムでもなく冴えない風貌で、当然女性にもモテない。

ほとんど家にいて毎日朝寝坊をし、部屋もキレイに整頓できず常に床に物を敷きっぱなし。そんな床で寝転んで、タバコを吸ったり漫画を読みふけって笑い転げたりと、何一つ子供の見本となるところがないような、行儀の悪い大人なのである。

しかし逆に言えば、そこに親しみや愛着を感じやすい人物像であることも事実。
いわば、「カッコよさとは真逆のヒーロー像」である。

発行以来、多くの少年読者は「こんなおじさん、身近にいてくれたらいいな。」とか「大人になったら、こんなおじさんみたいになれたらいいな。」と感じたのではないだろうか。

原作の挿絵にそっくりの風貌と雰囲気。松田龍平の熱演が光る。

原作の挿絵を描いたのは、あの和田誠。
故・星新一氏のSF小説にも多くの挿絵を提供したので、知っている方も多いだろう。単純なラインで何とも可愛らしい雰囲気を醸し出す、個性ある挿絵家である。

この映画のおじさん役を演じる松田龍平は、原作の挿絵にあるずんぐりむっくりの風貌とはちがって、スリムな体形である。
しかし、目つきやしぐさは、まさに原作の雰囲気そのもの。
特にポスターにある、物陰から体を半分だけ出してこちらをのぞき見しているシーンは、完全に原作そのものの雰囲気をよく表している。

演じる松田はインタビューで「“叔父さん”というより、ひらがなの“おじさん”感を追及した。人の言葉を意に介さない。とにかく影響を受けない人。だから、それが変に“自分の世界でしか生きられない”風になって欲しくなかった。」と語っている。
彼も最初、おじさんの強烈なキャラに戸惑いを覚えたという。

物語の前半は「原作からセリフを変えるとつまらなくなる」という山下敦弘監督の意見通り、ほぼ原作通りに進行している。

後半は、原作にあるおじさんがお見合いをしたというエピソードと、ハワイに行ったという別のエピソードをつなぎ合わせて、マドンナを追ってハワイに行くという映画オリジナルの展開となる。

ダメ男のおじさんを、優しく見守る小学生の雪男。

物語は子供の視点から進む。 出典:

小学生の視点から見ることで、おじさん像が活き活きと動く。

映画の設定は原作と同じく、主役の「ぼく(雪男)」が主人公の「おじさん」を描写する。

『シャーロック・ホームズシリーズ』で、助手のワトソンの視点からホームズを見るように、『ぼくのおじさん』でも、決しておじさん本人がどう思って行動したのか、心境が明かされることはなく、ただ行動を記録するという視点で話は進む。

決して面倒を見てもらえず、むしろ迷惑ばかりかけられまくって閉口しているのに、心の中ではそんなおじさんをかけがえのない友人のような気持ちで接している雪男。
そんな雪男の戸惑いやおじさんへの複雑な思いなどを、子役の大西利空は純真さを感じさせる正直な演技で演じていて清々しい。

物語の発端は、学校の宿題。先生からの宿題で「誰でもいいから、周りにいる大人を題材として作文を書く」という課題で、雪男はお父さんでもお母さんでも書けず、ふと居候しているおじさんのことを思い出し、その可笑しな言動を描き出していく。

いつも家でゴロゴロしていて、いっしょにでかけたり遊んでもらったり(遊んであげたり?)しているおじさんのほうが、雪男にとっては父親や母親よりも、身近で描きやすい存在なのだろう。

そんな模範的な大人ではないユーモラスなおじさんと雪男の軽妙な文章を担任は気に入って、クラスの代表としてコンクールに出品することが決まる。
そして優勝の景品として、おじさんと二人でハワイへの珍道中に旅立つのだ。

ダメおじさんゆえの魅力。彼は他の大人たちが失ったものをまだ持っていた。

出典:

こうしただらしのない人間像は、大人から見れば子供の見本にはなってほしくない。しかし子供の目から見ると、実に魅力的に映る。

もしこの作品を大人視点から見たら、小説であっても映画であっても駄作で終わる。
ただのぐうたら人間を描写するだけで終わってしまうからだ。
この作品が子供たちに愛され、そこからの視点で見たおじさん像が大人にとっても愛すべき人物であることが明確にわかるのは、子供視点から見ているからだ。

どこがそんなにちがうのだろう?
それは、おじさんが子供と対峙した状態だとよりハッキリする。

一般に大人は、子供に対しては上から目線でモノを言う。自分ができていない道徳論であっても、子供が相手なら偉そうに説教する。
「ウソをついちゃいかん」とか、「ズルをしちゃいかん」といったようなことを。
会社ではウソをついたり、経費をごまかしたりしていても、子供の前では平気でそう言うのだ。

ところが、このおじさんは偉そうに説教はするのだが、ちっとも上から目線ではない。
まるで子供のまんま、時によっては子供よりも幼児性が強く、はるかに年下の子供たちと平気で張り合う。
大人から見るとしょうもない大人なのだが、子供から見ると「自分たちと同じものをまだ持っている希少な友達」と感じられるのだ。

児童文学(あるいは映画)として本作に共感できる人は、「このおじさんのように、いつまでも子供のころの気持ちを持ち続ける大人になりたい」と感じることができるだろう。
子供の頃のみずみずしい感覚は、大人になるための一過性の消耗品であってはならない。

このおじさんは、一般の大人の行動規範を持っていない。
しかし、その純粋さゆえに、一般の大人のような余分な悩みを持たずに生きている。そこがうらやましくもあり、ある意味「カッコいい」のだ。

懐かしい昭和の香り。あの時代の空気を存分に楽しめる。

出典:

原作となった児童小説が初めて連載で発表されたのは60年代、それがまとめられて単行本として発行されたのが70年代。
だから、原作ののんびりした世界観は現代とは合わない。

しかし映画化された世界は、あの『ちびまる子ちゃん』が原作と同様に70年代の設定のままであるのとは対照的に、『ぼくのおじさん』は時代設定が現代となっている。

この時代設定をどうするか?
それは、制作側も色々思索したであろう。
なにせ出来上がった映画の世界は、漫画がフィルムで覆われているなど、携帯電話が登場しなければいつの時代かわからないほど、昭和の空気に包まれているからだ。
原作の雰囲気に忠実であればあるほど、自然とそうなってしまう。

主役の「ぼく」は、スマホをいじくりまわしたり、「ポケモンGO」などのゲームをしたりはしない。
夕食は家族そろってするし、暇な時にはおじさんと近所の散策をし、学校で野球やサッカーを楽しむ、昔ながらの子供。
どう見ても現代の子供ではないのだ。

しかし、そう言った描写を経て逆に「平成の現在でも、昭和の時代のようにのんびり過ごすことも不可能ではない」と気づかされる。
現代の設定にあえて昭和の香りを持ち込んだことにより、なんとも心地よいノスタルジックな気分にさせてくれる作品に仕上がっており、爽やかな印象を残してくれる。

参考元

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